この時期、このタイトルだと思い浮かぶのは「肉まん(あんまん)」でしょうか?笑

今回は、ちょっと、いつも意識しない「やわらかいもの」についてです。

先日、芦田愛菜ちゃん(さん)と糸井重里さんの対談を見ました。茉奈ちゃんは、もう中学生ですね。中学生の頃は、考えている事、感覚的にキャッチできることはあまり大人と変わらない気がしますが、どう表現したらいいかわからず、結果として「中学生」の「型」で見られているだけ、のような気がします。究極を言えば、赤ちゃんだって、ほんとうは全てわかっている(もちろん社会のルールなど、限定的な世の中のために人為的に人が作ったものについては無知)けれど、表現できないから「赤ちゃん」として見られている。「おばさん」「おじさん」「おばあさん」「おじいいさん」も。。。。そういう「型」で見られ、自分もまた人を「型」で見ている。

個々人は、ほんとうは、「中学生」でも「おじさん」でも「おばさん」でもなく、その人がそのひとである「流れのようなもの」を内側にもってる人でしかない(ですよね?)。人を大雑把に種類分け(類型化)する言葉が、人を理解することを、大いに妨げ、それだけでなく自分でも自分をその型にはめて生きてしまう。。たとえば、ファッションにしても、「おばさん年齢らしい」ファッションとか(笑)

そうそう、やわらかいもの、についてでした。

ほんとうは、言葉って、そうしたあらゆる「違和感」を何とか表現できないものかと、ムズムズしたものが昇華され生まれてきたものなのです、というようなことを糸井さんが言われてあり、もう何十年も昔、私が学生の頃、吉本隆明や糸井さんの本を読んで、書いてあったことが、まだ糸井さんの中に奔流として流れているのだというところに感動しました。

あらゆる「新しいもの」や「違和感」は、まだ赤ちゃんのように「やわらかい」けれども、赤ちゃんのように叫びたいエネルギーをもっている。すでに名前(言葉)がついた違和感は、それを使えばいいかもしれないが、それでもぴったりとは限らず、そこにまた新たな違和感が生まれる。細胞の新陳代謝と同じエネルギーで、全ては動いているから仕方ないのでしょう(?)

なんか、不親切な、訳わからないこと書き続けていますね。

つまり(?) やわらかいものを表す努力、というかそれを潰してはダメだという変わらぬ使命感が、糸井さんが茉奈ちゃんに質問する言葉の選び方ひとつひとつに感じられて、えらいもの(仕事)を見てしまった、気がしたのでした。対談がおわって、笑顔でふーっと息をつく糸井さんの姿に、やっぱりかなりすごい仕事だったのだと思いました。(見終わった私も、ふーっでした)

さて、仕事を振り返ると、、

喪家様に取材をさせていただく時、おかけする言葉は、やわらかいものを掬えているだろうか、、、?

このようなお仕事をさせて頂けるのは、大変貴重なことだと感じながらも、時間に追われ、

焦るあまり上手く質問できないことが、まだまだあります。まだ、道の途中ですね。。。

 

 

 

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